【番外編①】私が今後やりたいこと
みなさま、今年もどうぞよろしくお願い致します。
遅れてしまいましたが、2025年の最初の月ということで、かねてから書きたいと思っていた「番外編」を2つ投稿させて頂きます。
前職の投資会社インテグラルで働いていた頃、佐山展生さんをはじめとした創業者の方々は、彼らの生い立ちや、前職で感じたことについて日々語ってくださっていました。私はそれを通じて彼らの価値観を学ぶことができ、仕事でご一緒する頻度が少なくても、不思議と心が通じ合えているように感じたのを覚えています。
その後、ハーバードでも、クラスメイトと自分達の生い立ちや思いを共有し合う機会が多々あり、卒業後いつでも連絡を取り合える仲はそういう機会を通じて築かれたのかなと感じています。
自分のストーリーを伝えることは、意外に意味がある。ということで今回は、私ごとで恐縮ですが、今後やりたいことや、その根底にある私のこれまでの経験を共有させて頂きます。いつものニュースレターをご期待の方は、ご遠慮なく今回と次回のニュースレターはスルーしてくださいませ。
①自分は与えられた機会の産物
ボストンコンサルティンググループ(BCG)の新卒リクルーティングチームにいた頃、応募者の中からどんな人が内定に至っているかの分析結果を確認するミーティングがありました。データを見ながら「狭き門だなぁ。。。」と思いながら周りを見渡すと、日本のトップ大学の首席、研究者、難関学部卒などばかり。
その時ふと、「10年前、こんな場所にいると思っていたかな?」と考えてみたら、答えは間違いなく「No」でした。渡米前の自分の偏差値からして、運よく日本のトップ校に入れても、その中でさらに抜きん出るようなイメージはありませんでした。
であれば、その10年間で何が変わったのか?MBA受験中、自分の過去を振り返った時に、答えに辿り着きました。
「自分は、これまで与えられた機会の産物なんだ」
その機会とは、遡ると以下の3つでした。
米国移住で身につけた英語力
全寮制の高校で手に入れたビジネススクールへの切符
モーレツな就職予備校で鍛えられたマインド
それぞれ順に振り返ってみます。
1. 米国移住で身につけた英語力
私は11歳の時に、親の仕事の都合で家族で米国に移住しました。米国の会社と合弁の乳製品工場を作るプロジェクトだったので、必然的に牛がたくさんいる、カリフォルニア州バイサリアという町でした。人口14万人の町で、日本人どころかアジア人は、我が家と和食料理店を経営していたご夫妻のみでした。
英語を学ばないと生きていけない環境でしたが、現地の生活には最後まで馴染めず、英語が嫌いでした。先生方はとても親身だったのですが、中学生という難しい時期もあってか、同級生の輪には入り込めませんでした。後になって、この群では2016年・2020年と連続でトランプが勝利したのを見て、「そうか、自分はMAGAタウンにいたのか。政策の良し悪しはさておき、移民として住んでいたら、まぁ馴染めなくてもしょうがなかったのかも」と思うようになりました。
高校に入るタイミングで、親が、教育の質と、今後の移転の可能性も考慮して、家族の移転に影響を受けない全寮制の学校(ボーディングスクール)を受験させてくれることになりました。色々と受けた結果、進学校ながらものびのびとやれるカリフォルニア州南部にある学校(Cate School)に補欠から繰り上がり、そこに行くことにしました。
2. 全寮制の高校で手に入れたビジネススクールへの切符
Cate Schoolでは、優しい先生と同級生に恵まれ、現地での生活にも馴染んでいきました。入学時の英語力はまだ全くネイティブ並みでなかったのですが、文章力を大事にする学校で、エッセイを沢山書いて先生に赤ペンを入れてもらうことで、高校2-3年になるぐらいには自分の英語力も気にならなくなりました。
また、これは英語がハンデな日本人あるあるですが、理数科目が強みになりました。「好きこそ物の上手なれ」と言いますが、私の場合は「上手こそ物の好きなれ」で、結果が出るにつれてその分野にのめり込んでいきました。高校2年生を終えた頃、理数系で学年トップの生徒に与えられるThe Rensselaer Medalをもらい、米国の難関校も射程距離内に入るようになりました。
少人数のボーディングスクールに行くと得するのは、課外活動です。米国では生徒数に応じてスポーツのリーグが分かれているので、生徒数の少ない学校はそのリーグ内でしか戦いません。陸上では地区個人優勝、野球では地区奪三振王、と願書でアピールすることができました。
何カ月も待った大学受験の結果。「チャレンジ校」と言われていたプリンストン大学は不合格、マサチューセッツ工科大学もあと一歩の補欠でしたが、ビジネススクールで知られるペンシルベニア大学で経営学部・工学部の両方の学位を取得できるプログラムに想定外に受かりました。「同じ学費で両方取得できるなんておトク」「ビジネスが分かるエンジニアになれたらカッコイイんじゃないか」という、今思えばやや楽観的すぎる期待を抱いて入学を決めました。
会社員ながら私と姉の教育に収入の多くをつぎ込んでくれた父親と、良い学校に出会えるよう全米各地の学校訪問に連れていってくれた母親には、感謝の限りです。
3. モーレツな就職予備校で鍛えられたマインド
受験生活から解放されて楽しい生活もつかの間、数カ月で厳しい現実を見ることになります。米国では就職や大学院進学に成績が大きく関係するのを良く知らず、浮かれていたら、最初の学期はさんざんな成績になってしまいました。
トップ企業に入社するには大体3.7、難しい学科であれば3.5ぐらいで足切りされるというのに、3.7以上に匹敵する「A」の成績は、理数分野では各クラスの30%以内の生徒にしか出ないよう厳しく制限されていました(だから就職の足切り基準として意味があるのですが)。企業や政府の奨学生は成績上位でないと学校に残れず、猛勉強して必ずクラスの上位30%に入るので、「奨学生分布曲線(=奨学生が多いクラスは要注意)」という冗談があるほどでした。
おまけに、ビジネススクールならではのガツガツ感というか、1年生にして「私はゴールドマン・サックスで働きたい」みたいな人が結構いて、私は「ゴールドマンなんですか」というレベルでした。プロフェッショナルファーム志向の強い異様な学部で、大半の生徒はそれを目指して勉強し、内定をもらっていました。私が後にトップコンサルで内定をもらえたのも、相対的には「フツー」のことでした。
その頃に、ソフトウェアがこれだけ世界を変えることを予見できなかったかなぁ、とたまに思うのですが、当時テックと言えばMicrosoftとGoogleぐらいしか採用に来る企業はなく、コンピューターサイエンス好きならありかもね、ぐらいの温度感でした。一方で、既にスタンフォードのキャンパスではFacebookのような新興企業に入社する人も増えていたようで、やはり住む場所やコミュニティは大事だな、とつくづく思います。
そんな環境で経営や工学の勉強に打ち込み、就活に励んだ中、3年生の終わりの夏にメリルリンチ日本証券で長期インターンの機会を頂きました。超凄腕な中堅の先輩方のもとプロフェッショナリズムを徐々に学ぶ中、「やっぱり日本で自分らしく働けた方が、ウォール街で何百人の同級生と同じ仕事をするより楽しい」と実感しました。職種的には日本の企業をより中から変える仕事がしたいと思った私は、最終的にBCGの東京オフィスで内定を頂き、入社を決めました。
BCGで働くチャンスを得られたことは大きな転換点でした。ここでの経験や修行があったからこそ、その後の道が開けたからです。また、コンサルティングという業態が日本ではさほど大きくなかったからか、起業家精神の強い先輩方・同僚・後輩も多く、今も公私共にご一緒させて頂いたり、日々刺激を頂いたりしています。
② 機会をスケールするには、テクノロジーが不可欠
機会が人生を変えられるのなら、その機会をより多くの人が得られるようにするにはどうしたらいいのか。私は、テクノロジーの活用が不可欠だと考えています。
第1に、人を直接介するノウハウの共有はスケールしません。教育領域では長らく、マンツーマンの指導を行えば学生はトップ2%の成績が出せるが、その費用を払える人が限られる、という問題に悩まされてきました(「ブルームの2シグマ問題」)。幸い、この問題自体はインターネットとAIを通じて解決されつつあります。その中で、新たなスキルをより多くの人に広めるには、学ぶ価値のあるものを選別して伝える伝道師が今後も必要になると思います。
第2に、AIの台頭により、それを上手く活用できる人やチームには大きな機会が生まれます。早ければ今年中にAI Agentも「就職」「社会進出」すると言われている中、意志ある人々がAIと共に社会課題の解決に取り組めば、これまで想像できなかった成果が出せるようになります。特に日本のような少子高齢化社会では、AIやロボティクスを通じた課題解決がカギになると思います。
第3に、テクノロジーによる機会創出はある意味普遍的なことです。経済学では、資本や労働では説明がつかない経済成長を「全要素生産性(Total Factor Productivity)」と呼ぶぐらい、技術進歩が人の機会を創出してきました。その時々でなくなる仕事はもちろんありますが、その後より人間らしい仕事が生まれてくるのも事実です。AIによるインパクトは「我々の人生ではもちろん、もしかしたら歴史上、最大かもしれない」と言われる中、より多くの人がその機会を活かせるようにしたいです。
③ テクノロジーを通じて日本の機会を増やしたい
米国は引き続きAI革命やそれに伴うソフトウェアの進化で盛り上がっており、日本でもガンガン取り組んでいる方々ももちろんいますが、なかなか同じ熱量で伝わってきていないように感じます。
それもそのはず、コンサルティングや金融のような世界中に分散されたプロフェッショナルサービスとは違い、ソフトウェアのプロダクト開発は、概ねその本国で完結しているからです。日本企業なら日本主導で開発を行い、欧米企業なら欧米主導で開発します。このため、本国以外の拠点からは、プロダクト作りの実態が見えづらくなります。
私としては、微力ながらも、昨年始めたコンサルティングに加え、今年はそれ以外の手段も通じて、プロダクトマネジメントや事業開発のノウハウをより多くの方に届けていきたいと考えています。昨年だけでも、この媒体で出会った方々に沢山の刺激を頂きました。今年もさらにそのような機会を増やし、より多くの方々が事業開発やプロダクトマネジメントに身近に取り組めるよう尽力したいと思います。
昨年立ち上げた法人「プロダクトサイエンス」は、インテグラル時代にお世話になった実業家、大久保恒夫さんの企業「リテイルサイエンス」にちなんで名付けました。ユニクロや良品計画の改革に携わり、成城石井、セブン&アイ・フードシステムズ、そして今は西友などあらゆる企業の社長を歴任されてきた大久保さんは、行く先々で社員を主役とした小売事業の成長を実現して来られました。
恐らく生涯かけても追いつけない実績ですが(笑)、私の場合はテクノロジーを軸に、ご一緒させて頂く企業と、そこで働く方々が想定を超えるような成果、引いてはキャリアを実現できるよう、取り組んで行きたいと思います。
長々と私ごとばかりでしたが、読んでくださりありがとうございました。みなさまの2025年のご多幸を心からお祈りしています。